多摩ハワイアン連盟 会長
ヒノハワイアンズ バンドリーダー

 沢田光男さんを偲んで
                                 2008/1/31 tomimoto記

 1999年、日野市にハワイアンバンドを作ろうと「日野市広報」にメンバー募集の記事を寄せたのが、沢田さんでした。
 呼びかけに応じたのは、元プロバンドのバンマスも務めたスチールギターのプレーヤー。バッキー白方さんたちと、テレビで共演したこともある女性プロバンドの元ボーカリスト。学生バンドで、ほぼプロと同じ活動をしていた人などが参加。ウクレレを習いだしたばかりの人たちも数人加わりました。
 スタート時は、スチールギターが一人。そして、ギターが沢田さんだけ。他は全てウクレレ(6人)パートでしたので、とても人前で演奏するような編成ではなかったようです。
 スタートから数ヶ月ほどして、あるメンバーから「ベースを弾いてくれ」と頼まれて、筆者(tomimoto)が参加。その後、私と別なバンドで一緒のメンバーがギターで参加(本来はウクレレプレーヤー)して、やっと、編成上のバランスが取れました。
 当初は、昔の経験で演奏できる曲を中心に練習をしていた関係で、ダンスバンドとしてステージデビューしました。
 フラーブームが本格的になり、次第にフラ中心のバンドとなっていくのですが、沢田さんの本領は、ここから発揮されていきます。豊富な知識、膨大なハワイアン音楽のコレクション、組織運営の才能が活かされていくようになりました。

 沢田さんは、学生時代にハワイアンバンドのサークルに参加。W大(都の西北にある)のナレオハワイアンズに入りました。熾烈なレギュラー争いで有名なナレオハワイアンズです。早くからレギュラーになりたくて別バンドを組んだと聞いていますが、この時のメンバーと後年、再びバンド活動を再開します。これが、「パームアイランダース」です。
 メンバーの住まいがそれぞれ離れており、練習場所も遠いため、近くでハワイアンバンドを組みたいと、日野周辺の人を集めました。名前を「ヒノハワイアンズ」としたのも、そんなわけです。
 
 日野に限らず、周辺の人たちと「ハワイアン」で交流を深めようと、「多摩ハワイアン連盟」を結成し、その中心となり活躍してこられました。
 日野市民会館で行われる「フラ&ハワイアン」は、昨年で第6回を迎え、大ホール客席をいっぱいに埋める恒例行事に育てました。また、フラパーティーも昨年で第7回を無事終了しました。今年、3月2日には第7回メレフラを開催することが決まりましたが、準備の最中に体調を崩され、入院。メンバーとは病院からの電話で打ち合わせをしていましたが、病状が急変。2008年1月28日、ついに帰らぬ人となってしまいました。
 筆者とも、亡くなる10日ほど前に電話で話しこみました。ヒノハワイアンズでは若輩にあたる私にも気を遣ってくれる人で、私の別なバンド活動のことまで、かなり、わがままを聞いてくれる方でした。

 私と同じように中高時代に吹奏楽をやっていたそうで(クラリネット奏者だったそうです)、「ギターやウクレレなら、相当歳を取っても演奏できるからいいね」「早くに吹奏楽器から転向して良かったですよね」と、話が弾みましたが、まだまだ歌って演奏できる年齢です。クラリネットだって吹ける年齢です。
 現役を退いてから(日本ビクターに勤めておられました)、大好きなハワイアンを楽しみ、ハワイアンの仲間がどんどん増えて、幸せそうでした。
 昨年末、我が家で、飲んで、食べて、歌って、騒いだパーティーの場が、沢田さんの歌とギターを聴いた最後です。声に力がないのが気にかかっていました。
 
 ヒノハワイアンズと多摩ハワイアン連盟を維持していくことが、なによりの供養と信じます。
 ご冥福をお祈りします。
 
 追記
 沢田さんは昨年(2007年)10月に一度入院。退院直後の10月27日に行われた日野市民文化祭「フラ&ハワイアン」を欠席し、再起を期していました。11月10日の佐藤先生主宰フラ教室パーティーに出演するまで回復したと、誰もが思った矢先の再入院でした。
 11月10日が、長いハワイアン活動最後のステージとなりました。ここで歌った「カ・ウルヴェヒ・オ・ケ・カイ」が最後の録音です。少し力がないようにも感じましたが、やさしい歌声です。沢田さんの「白鳥の歌(最後の歌の意味)」です。

 「カ・ウルヴェヒ・オ・ケ・カイ」2007年11月10日LIVE録音(歌:沢田光男 演奏:ヒノハワイアンズ)