ヒノハワイアンズ バンドリーダー
大塚 港 さんを偲んで
2011/1/26 tomimoto記
「ヒノハワイアンズに、この人あり」。
大塚港さんの歌唱力は、ヒノハワイアンズの原動力でした。
この大塚港さんが、2011年1月19日に、永眠されました。
左の写真は、2010年10月30日、日野市民文化祭「フラ&ハワイアン」で。
ヒノハワイアンズで12年。
1999年にバンドがスタートした時点では、お世辞にもうまいとは言えない演奏技術でした。楽器編成も、スチールギター、リズムギターがそれぞれ一人ず
つ。ウクレレは6人もいるが、半数は初心者。残りの半数は、30〜,40年ぶりに弾くという人ばかり。ベースもいない状況で、人前で演奏するのは、かなり
先だ思われる状況でした。
妻の友人でもあるメンバーの一人から、私に(筆者tomimoto)、ベースを弾いてくれないかと話が来た時は、私も、別なバンドを立ち上げたばかり
で、少年野球のコーチも忙しく、土・日は目一杯活動していたころでした。まして、ベースは、おもしろ半分に弾いたことがある程度。
妻から、「見学がてら行ってみてあげてよ」と言われ、コントラバスを持って練習場所に行ってみることにしました。
野球の練習が終わってからだから、バンド練習時間には小一時間ほど遅れたと思います。
部屋を開けると、真っ先に聞こえてきたのが、tairaさんの歌う「ヘ・ウイ」。久しぶりに聞く本格的なフラソング。ところが、歌はうまいが、
みんなの リズムはひどい。チューニングが狂ってきても、そのままなので、tairaさんは自分のウクレレの音程に合わせて歌っていました。
ベースを見て喜ぶメンバーの中に入り、合わせて演奏すると、厚みが出た音とリズム。
私が、次に感心したのが、大塚さんの歌でした。「ブルーハワイ」だったと思いますが、本格的なボーカリストがいるものだと思いました。甘いバリトンで、
実に上手だったので、こんなところで、歌うのはもったいないと、むしろ惜しんだくらいでした。
そして、私は、「ベースが入るとすごい」と、喜ぶメンバーに乗せられて、「野球の合間でよかったら、しばらくお手伝いします」と答えてしまいました。
ベースは自信がなくても、他のメンバーのレベルから見れば充分だという判断もあり、ベースマンとして参加することになったことが、今日のハワイアン三昧
となるきっかけとなりました。
今では、演奏技術も上がり、自信を持って大塚さんのバックを務められるバンドとなりました。「多摩ハワイアン連盟」の主幹バンドとして、300曲近いレ
パートリーを持つまでになりました。私も、ベースから解放され、ウクレレとスチールギターを弾いています。さらに、歌の上手な人も増えました。
それでも、大塚さんは、ソロやハーモニーパートを含め、半数近い曲で歌っていました。大塚さんの抜けた「ヒノハワイアンズ」は、片翼をもぎ取られた鳥の
ようなものです。
発病してから約2年。一時は、バンドを抜けたかたちになって、ステージを休んだこともありました。
そのステージでは、充実した女性ボーカル陣は健在でも、柱のない男性コーラスは、度胸のある私でさえ萎縮するものでした。
それを、知った大塚さんは、戻ってくれました。 多分、病気は進んでいたのだろうと思います。
昨年(2010年)は、ナレオアイランダースのパーティ演奏で、病気のメンバーに代わり歌ってくれました。HAPAの演奏するフラコンサートにも、一緒
に出かけ、一流の演奏を楽しみました。武蔵村山市のフラコンサートにも出かけるなど、精力的に活動を続けてきました。
定年後の大塚さんは「思い切りハワイアンを楽しんでる」ようでした。
私たちの二大イベント。夏の「サマージョイント・フラパーティー」。秋の日野市民文化祭「フラ&ハワイアン」。
昨年も見事な歌唱力を披露してくれました。「フラ&ハワイアン」直前の練習では、度々声が詰まる症状が出て、
「今回は無理かも?」と誰もが思う状態だったのに、本番では、そんなことを忘れさせる熱唱でした。
病気を知らない方たちは、そんな病状を知るよしもありません。
少しでも延命できるようにと、先に手術をする選択肢もあったのですが、ステージを優先されました。
「二度と歌えなくなるより、どうしても市民文化祭で歌いたかったのでしょうね」
との奥様の言葉を聞き、あまりにも頼りにしてきた私たち。ご家族にも申し訳ないという気持ちになりました。
ヒノハワイアンズの創設者で初代リーダーの沢田さん。その3年後に大塚さん。
また、偲ぶ文を書くことになった切なさ・悲しさは当分癒されないように思えます。
※
「ブルーハワイ」 「ハナレイムー
ン」 「フキラウソング」 「アイル・リメンバー・ユー」 「恋人よアロハ」 など、ハオレソングが得意でし
た。